●『花囲夢』とは…

 『花囲夢(かいむ)』という商号は我が家の屋号から来ています。初代「嘉右エ門」の名前から「カイム」さんという屋号になったようです。
 そこで農園名には『花囲夢』という字をあててみました。

花 囲 夢
 私も含めて、家族みんなが花好きでしたから「花」の字はすぐに浮かびました。薔薇をはじめとした花卉類、果樹の花、野菜の花、野の草花の花にもそれぞれの風情があります。
 私の祖母も「はな」という名前でした。命日が桃の節句ですから「花」とはどうも縁があるようです。
 「囲」の字は、井戸端会議のような和気藹々(あいあい)とした人間関係を築きたくて選ぶことにしました。
 情報処理関係の学校を卒業後、ソフトウェア開発の最前線で20年間、いろいろな人と出会うことが出来ました。今でも私の大切な財産になっています。
 農業に定年はありませんがこの先の20年間も多くの仲間たちと「わいわいがやがや」やっていくことでしょう。
 働くことで多くの人に夢を与えたいという思いから「夢」の字が出てきました。
 現実の農業は経済的にも体力的にも決して楽ではありませんが、自らが夢を持ち続けることで「はた」を「らく」にする(=働く)ことが出来ると信じています。


●『花囲夢』農場はここにあります −農の視線から見た我孫子の歴史−

 千葉県の北西部、手賀沼と利根川に挟まれた「我孫子」は白樺派の文人たちも愛した風光明媚なところです。今日では農村というよりも、都心へ通うサラリーマンのベッドタウンとして知られています。1970年代から今日に至るまで、私どもの農場周辺には住宅が数多く建てられています。
 手賀沼といえば一時期「日本一汚い湖沼」ということで有名になってしまいました。高度経済成長の波に乗った時代の生活排水、工業排水、農業排水によるものと考えられています。一方で我孫子市民の環境に対する意識は高く、谷津田の保存などさまざまな取り組みを進めています。

 私どもの農場のある「布佐」地区は我孫子の東のはずれにあり、古くから利根川水運の寄港地でありました。この周辺は、利根川を中心に、南に手賀沼、印旛沼、北に霞ヶ浦、北浦があるわけですが、明治時代まではこれらが渾然一体と繋がって、いわゆる水郷の中に島が浮かぶという風景に近いものがありました。明治40年に作られた地図を見ると、手賀沼は現在の6倍ほどの大きさがあります。布佐の南側は広大な沼地と芦の茂る湿地でした。現在市内を東西に横切っている国道356号線(成田街道)沿いは比較的標高が高く、このような島の1つでした。

 北を流れる利根川は板東太郎とも呼ばれ、川の氾濫が続いたところです。氾濫によって上流から肥沃な土が流されてきては堆積していったと想像され、川の周囲には水田地帯が広がっていました。洪水で稲が水没するという不安定な時代は、今から300年以上昔の寛文11年(1671年)に布佐に堤防ができると、収束していきます。しかし町の中心部では昭和の時代になっても幾度となく堤防の決壊を経験しています。

 江戸幕府は享保の飢饉を受けて手賀沼〜印旛沼にかかる干拓事業を進めていきます。この時代に手賀沼の新田開発を手がけたのが、幕府の御用商人で町名主を勤めた豪商、井上家です。しかし度重なる洪水などを受けて事業は進まず、本格的な干拓は昭和初期になってからようやく完成を見ました。布佐地区南部の水田の多くはこのときに出来たものです。

 花囲夢の田んぼのある北郷・江蔵地地区は、利根川沿いにあります。比較的早く堤防が出来たことと、利根川の堆積物の影響もあって、水田としてはかなり古くから開発されていたようです。昭和40年代に現在の区割りに圃場整理がなされ、井戸水による潅漑用水と利根川への排水路が整備され、現在に至っています。

 地名の由来を調べていましたら、おもしろい事実にあたりました。ニュージーランドの先住民であるマオリ族の研究をしている方によれば、「ふさ<HU-TA>」は「浸食された丘陵(がある地域)」を指し、「あびこ<API-KOU>」は「丘が集まって凝縮している(場所)」を指すのだそうです。また、中国語に詳しい方の話では、中国では浮いているゴミのことを「浮渣」と書きますが、これも「ふさ」と読むそうです。偶然かも知れませんが丘陵地帯と湿田地帯がある我孫子をよくあらわしているものだと感心させられます。


●私たちが作っています

 天日干しのお米・無農薬のお茶・ブルーベリー・ジャムなどは、私たちが丹誠をこめて作っています。
農園『花囲夢(かいむ)』
 野口 忠司・郁子
  〒270−1101
   千葉県我孫子市布佐826 ←ここをクリックするとGoogle Mapが開きます。
   電 話:04−7189−2825
   メール:sales@kaimu.jp

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